乗車時間の有効活用
車社会の地方に在住の方にはピンとこないかもしれませんが、電車の発達した都市部に住んでいると、基本的な移動手段は電車になりがちです。都心部になりますと駐車場は高くつきますし、車の維持費も馬鹿にならず、おまけに駐車できる場所が限られていますから、必然的に通勤・通学のために電車を使うことになるわけですね。
よほど混み合っている満員電車でなければ、本を読んだり携帯で動画を観たりすることで時間を潰すことは可能です。しかし、そういった暇潰しの趣味を持たず、自分のメンタルに自信のない方にとっては、乗車中の時間は試練にも似ています。心の仲はこれからの労働や学業に対する不安でいっぱいです。
「今日も怒られてしまうのかなあ……」
夜は眠れずため息ばかり、電車の中でも憂鬱でたまらず、悪い想像ばかりが頭の中を駆け巡る。そんなお悩みを抱えてしまった方に朗報です。そう、ダンベルなどの道具や広いスペースを必要とする筋力トレーニングと違い、携帯などのちょっとした小道具を広げるスペースや、窓の外の景色さえあれば、メンタルトレーニングは電車の中でも出来てしまうのです。

では、どのようなトレーニングがあるのでしょうか? 早速ご紹介いたしましょう。
電車の外の景色から特定の何かを探し出す
準備するものはありません。ただ、電車の中で窓の外の景色が見える場所に立つだけでOKです。そして電車の出発と同時に流れゆく景色を眺めながら、その景色の中に含まれる特定のものを探し出す、ということを一駅ごとに繰り返していく。そんな訓練法があるのです。
例を挙げてみましょう。電車の外の景色から「赤い看板」を探してみます。真っ赤な書体でお店の名前などが書かれた看板、真っ赤な背景の広告看板などを見付けたら、頭の中でその数をカウントしていきます。そうして次の駅に到着したら、「前の駅からここまでで〇個の赤い看板が見つかった」と心の中で呟きます。
流れていく景色の中から特定のものを探し出すのは動体視力の訓練でよく使われる方法ですね。たとえば子供の頃のイチロー選手は、車に乗って外の景色を眺めているときに、車のナンバープレートに刻印された四桁の数字を読み取っていたという逸話があります。また、ナンバープレートでテンパズルを行い、答えが10になるように練習をしているという方までいらっしゃいます。
(テンパズル(make10)とは、4桁の数字を四則演算などを用いて10をつくる遊びのことです。たとえば、「東京 あ 4224」というナンバープレートを見つけたとします。ここで「4×2-2+4」と頭の中で瞬時に計算し、答えが10になるように調整していくわけですね。動体視力と瞬間的な計算能力が鍛えられるいい訓練なので、暇なときは積極的にやってみましょう)
さて、赤い看板の話に戻りましょう。この訓練方法は動体視力の訓練に使えるという話ですが、メンタルトレーニングにおいては「集中力を鍛える訓練」に分類されます。路線によって大分差がありますが、駅間の乗車時間はせいぜい数分ですので、集中力を高める訓練を行いたい方にはピッタリの訓練間隔と言えます。「短時間で何かに集中する」「駅と駅の間でいったん仕切り直し」を繰り返すことで、集中力のスイッチを入れるための切り替え力と瞬間的な集中力を高めていくのです。
広告を見続ける
これも道具を必要としない訓練方法です。何か一つの物事にずっと集中し続けなければならないにもかかわらず途中で集中力が切れてしまう方向けです。方法はとても簡単で、電車の中で窓ガラスに貼られた広告の一つをじっと見続けるのです。
電車の中は動きの少ない空間ですが、窓の外は激しく動いています。人の目は動くものを捉える能力を持っているため、景色が動く中で全く動かないものに視線を集中させるというのが案外難しいものなんですね。そこで、微動だにしない広告と外の景色を退避させ、ずっと広告を見続けるのです。
とはいえ、電車に乗っている時間が長い人にとってはなかなか難しい訓練法でもあります。10分ならともかく、15分以上同じものを見続けるのはなかなか難しいことですし、広告を見るという行為から集中力を得られたとしても、広告からは商品のことや面白いキャッチコピーしか伝わってこないわけですからね。広告業界の人間がプロの技に注目するというならともかく、そうでない人にとっては長過ぎても苦痛になるだけです。
したがって、この練習をする場合は、2~3駅程度を目安としましょう。3駅耐えたら次の駅まで休憩、今度は別の広告を3駅分見続ける、といった形で練習をこなしていきます。
内面の変化を捉えるトレーニング
今度は「自律訓練法」に近いトレーニング方法を紹介します。
自律訓練法は、イメージの力を利用して自分の身体のコントロール精度を高めるための訓練法としてLesson5で紹介しました。あのときは「手に温かいものを乗せてその温度を想像する」といった形で暗示をかけていましたが、同じことは電車の中でも行えます。
しかし、自律訓練法は本来静かな場所で落ち着いた心理状態になってからやるものです。通勤・通学電車の中のような、人によっては戦場とも言える空間で取り組んだところで効果は薄いでしょう。したがって、ここではもっと簡易なやり方で自分の内面を捉える精度を高めていきましょう。
その方法は、やはりとても簡単です。通勤途中に片手でつり革を持ち、もう片方の手はだらんと下げたまま特殊な形を作ります。「グーを握り込む」でも「すべての指を閉じた後、中指と薬指の間だけを意識的に離す」でも構いません。ここで大事なのは、ふっと意識が緩んだ瞬間に手の形が元に戻ってしまうようなものを心がけることです。「人差し指を中指の下に滑り込ませて交差させる」といった形だとふっと気が緩んだとしてもなかなか形が崩れません。
手を特殊な形にしたまま電車に乗ります。乗っている間は何を考えても構いませんが、手の形が崩れたことに気付いたら改めて作り直す、という手順を入れることが大事です。ふとした瞬間に集中力が途切れ、手への意識が離れてしまったときに、手は元の形に戻ります。その「意識が緩む瞬間」を自覚し、これを防ぐよう意識することが、常に自分の内面に注意を向ける練習になるのです。
プロのスポーツ選手の間でも、頭の上にみかんを乗せる集中法が流行したことがありました。これは「視線を一つの場所に固定する」「体の動きを極力抑える」「常に頭の上のみかんを意識することでトレーニングの精度を上げる」といった目的があり、しかも集中力が切れた瞬間にみかんが転がり落ちて気付かせてくれるので、非常に合理的な訓練方法ではあったのです。
しかし、私たちはみかんを頭の上に乗せて通勤するわけにはいきません。電車の外の景色を眺めたり、手の形に集中したりするのは、その代替手段と考えると良いでしょう。