Lesson1-3 日本への普及

アメリカとカナダへ

前回のLessonで紹介した通り、メンタルトレーニングを実施した旧共産圏の国々はモントリオールオリンピックで素晴らしい結果を残し、これに触発されたアメリカとカナダは次の機会に向けてメンタルトレーニングを導入します。

モントリオールオリンピックから8年、アメリカとカナダのオリンピックチームはメンタルトレーニングを導入し、ロサンゼルスオリンピックへ挑みます。8年という歳月は決して短いものではなく、心を鍛える科学的な方法の実践としてはこれ以上ない舞台でもありました。

結果はご存知の通りです。当時の政治的事情に鑑み、旧ソ連や東ドイツが参加をせずボイコットしたという事情もあるにはあるのですが、開催国であるアメリカはこのオリンピックで素晴らしい成績を残しました。獲得した金メダルの数は83個、メダル獲得総数でも2位の西ドイツ(59個)に3倍近い大差をつける174個。まさしく圧勝であったという他ありません。

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旧共産圏から上位に食い込んだのは金メダル20個、総メダル獲得数53個のルーマニアと18個のメダルを獲得したユーゴスラビア、そして徐々に力を付けてきていた中国の3か国でした。アメリカと同じくメンタルトレーニングを導入したカナダの総メダル獲得数は44個で、総数では4位、金メダル数では6位に入る健闘を見せています。

さすがにこの時期は旧共産圏も強かったのですが、メダル獲得数から見る限りにおいては、資本主義諸国がメンタルトレーニングを導入した効果は如実に出ていると言えるでしょう。事実としてロサンゼルスオリンピックを機にメンタルトレーニングの効果は一気に注目され、ここから全世界へその方法論が拡散していきます。

宇宙飛行士のための訓練の一環として始まったメンタルトレーニングは、このように運動の祭典を起点として、スポーツ界の頂点から徐々にボトムへと広まっていったのです。

日本への定着

実はこのロサンゼルスオリンピック、日本も上位に食い込んでいました。

当時のメダル獲得状況を見てみましょう。日本は10個の金メダル、8個の銀メダル、14個の銅メダルを獲得し、総メダル獲得数ではカナダに次ぐ第7位についています。大健闘と言って差し支えない成績と言えます。

しかし、オリンピックに出るようなスポーツ選手たちが、現状の成績に満足するような器でしょうか? もちろんそんなはずはありません。ロサンゼルスオリンピックで凄まじい成績を収めたアメリカや、同じようにメンタルトレーニングを導入したカナダを見て、日本でも研究してみようという流れができました。

そして翌1985年、日本でメンタルトレーニングの研究が開始されます。日本体育協会は主にスポーツ科学、スポーツ医学の分野でメンタルトレーニングに関するプロジェクトを発足し、調査と研究を開始しました。しかし最初はなかなか足並みが揃わず、1988年には研究の成果を日本のオリンピックチームに紹介したものの普及せずに終わるという結果にとどまっています。

メンタルトレーニングの有用性は理解しつつも、旧来の根性論や新しい練習方法への確信の低さが災いしたのでしょう。日本でのメンタルトレーニングの導入は、この一件もあってか、たった8年でメンタルトレーニングを手中に収めたアメリカやカナダとは比較にもならないほどゆっくりとしたものとなりました。

それでも日本は徐々に世界と足並みを揃えていきます。1989年の国際メンタルトレーニング学会の発足から遅れること5年、1994年に日本メンタルトレーニング・応用スポーツ心理学研究会が立ち上がり、翌年1995年にはメンタルトレーニングの基準が制定されました。その後、2000年のシドニーオリンピック開催時には、日本を代表する12の競技団体がメンタルトレーニングの導入を行っています。

これは日本のトップアスリートたちがメンタルトレーニングを有意義な効果のあるトレーニング方法として、また科学的な学問の対象として認めたということです。その波及効果がいかほどのものであったかは、同年に日本における最初のメンタルトレーニングの資格として知られる「メンタルトレーニング指導師」という制度がスタートしたことからもうかがえます。

これを機に全国各地で研修会が開かれるようになり、日本におけるメンタルトレーニングは、最上位のトップアスリートから小学生の所属するスポーツクラブまで、ゆっくりと浸透していくことになります。しかし、日本ではまだ旧来の根性論や、「スポーツの最中に水を飲んではいけない」というような科学的に正しくない教えがまかり通っていることも事実です。

メンタルトレーニングの精度

日本ではメンタルトレーニングの取り組みの精度はまだまだ荒いと言わざるを得ません。逆にシステマティックに構築された例としてはアメリカがあります。では、現代のアメリカではどのようなメンタルトレーニングが行われているか、確認してみましょう。

2015年に掲載された日経新聞の記事によれば、USOC(米オリンピック委員会)のオリンピック・トレーニングセンターでは、420人のスタッフ3人のスポーツ心理学者が働いています。栄養指導のための調理施設や疑似的に高地を作り出す低酸素室などといった設備が充実しているのも素晴らしいのですが、なんとこの施設では、メンタルトレーニングのために「座禅」が取り入れられているのです。

日本でも野球選手が滝に打たれるなどの荒行をした例もありますし、選手が個人的に座禅をするのは珍しい話ではありませんが、最先端のメンタルトレーニングセンターが科学的な方法を研究した末に「座禅」を取り入れているのは実に興味深い話です。こちらのトレーニングセンターでメンタルトレーニングとして実施されている内容そのものは、これからのLessonで描かれる基本的な方法とそう差はありません。しかし、異文化もためらいなく取り入れて、コンピュータを利用してデータを分析し、心を徹底的に解析して論理的に「メンタルを鍛える」ための体制が整っています。

日本で同等の設備を整えるのは土地の問題から難しいのですが、論理的・科学的に身体でなく心を鍛えるその方針を見習うことは可能です。高度なメンタルトレーニングの実施には周囲の協力が欠かせませんが、そのためには知識や方法論が十分に浸透していなければなりません。メンタルトレーニングを学ぶのは皆さんにとっても純粋に益のあることですが、近所のスポーツクラブや実業団などがメンタルトレーニングを導入する際にきちんと理解者になってあげられるなら、それは彼らにとってとても頼もしいことでしょう。

メンタルトレーニングは日本のスポーツ界に徐々に浸透しつつあり、選手の心身を損ねる悪習やメリットの薄い根性論を徐々に駆逐しています。メンタルトレーニングの学習は、己の成長のみならず公益に資するものであり、今後の日本スポーツ界の動向を見る上でとても大事な要素になるでしょう。