Lesson1-1 メンタルトレーニングの歴史をたどる

メンタルトレーニングに関する基礎的な知識を吸収する前に、まずそのバックボーンとなった歴史について学んでいきましょう。Introductionでも「メンタルトレーニングは旧ソ連の宇宙飛行士の訓練として始まった」ことをお話しましたが、まずはその流れをご説明します。

日常的に心を試される仕事

人は誰しも不安プレッシャーには弱いものです。エリートコースを歩んできた人が仕事でストレスを抱え込んで会社を辞めてしまったり、練習ではとても上手な部活仲間が試合になると全く動けなかったりと、メンタル面の弱さゆえに「上手くいかない」ことは日常茶飯事で、これをお読みいただいている皆様にもそのような経験はあるものかと思います。

とはいえ私たちは日常的にメンタルの強さを試されているわけではありません。大企業の顔役ですとか、経営者として常に己を大きく見せ続けなければならない……といった特殊な立ち位置にいるなら別ですが、普通に生きている限り「常に心を試される」なんてことはなかなかありません。

そして、残念ながら私たちは不必要なことと判断すると、あまり手を出そうとはしないものです。もしストレスに襲われる機会があったとしても、そのときはそのときということで、失敗してもいいやという態度で傷を負いながらも無理矢理切り抜けてしまいます。

具体的な例を一つ挙げてみましょう。たとえば、定期試験を思い出してみてください。勉強、しましたか? 普段からきちんと勉強している人なら良いのですが、もしマメな人間でなかったとしたら? ギリギリになって一夜漬けで暗記するなど、その場しのぎの対策で済ませてしまうことが多かったのではないでしょうか。

私たちの人生ならそれでも大丈夫です。たとえ数ヶ月に一回失敗したとしても、その失敗が尾を引いたとしても、致命的な問題にはなり得ません。現代日本は高度に発展した社会ですので、テストで赤点を取ろうが会社で大失態を犯そうが、それだけで即座に進退窮まるわけではないのです。

けれど宇宙飛行士は別です。

世界最高のストレス環境

Introductionでご説明した通り、宇宙飛行士は心を試される職業です。

……といっても、私たちは宇宙飛行士についてそう詳しいわけではありません。誰もが知っていながら実はその実態にあまり詳しくない職業の筆頭とも言えるものではないでしょうか。現代の宇宙飛行士がどのようなストレスに晒されているのか、確かめてみましょう。

微小な重力

代表的なストレス源です。宇宙船内の重力は地球より小さく、また地球や月からの影響で、その微小な重力さえも安定しません。常にふわふわする身体、安定して移動できない宇宙船内。重力が小さいことで筋肉が弛緩していき、身体が弱るという現象も起こります。

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騒音と振動

宇宙飛行士は宇宙船内の騒音や振動に悩まされます。宇宙船内での生活を維持するために必要なコストとはいえ、絶えず騒音や振動に悩まされる環境というのは非常にストレスフルなものです。

人間関係

宇宙飛行士が宇宙に滞在する期間は任務内容によりけりですが、長期滞在の者であれば数週間から数ヶ月に渡って一つの場所で生活を続けることになります。しかも宇宙に行ける人間の数は限られており、宇宙飛行士はほぼ同じメンバーとずっと顔を突き合わせて生活を送ることになります。

しかも、気心の知れた仲間とは限りません。宇宙開発には膨大なお金がかかりますから、各国が手を取って共同で進めることも多く、場合によっては全く知らない国々の宇宙飛行士と一緒に暮らすことになります。それでも仲良くなれるなら問題はないのですが、やはり文化の違いというものをいつまでも新鮮な喜びとして受け取るのは簡単なことではありません。異文化交流を強いられることが、そのまま大きなストレスに変わってしまう可能性も高いのです。

それに加えて、宇宙船から一歩外に出てしまえば-270℃とも言われる極寒の地獄が広がっています。スペースデブリとの追突にも気を付けなければなりませんし、仮に宇宙船が故障すれば船外に出て作業を行わなければなりません。

宇宙空間の解明が進んだ今でこそ安全性は増してきましたが、これらの様々なストレス要因を他の職業と比較すると、世界最高のストレス環境と言っても過言ではないでしょう。

旧ソ連でメンタルトレーニングが生まれた理由

現代でさえこうなのですから、メンタルトレーニングの生まれた1950年代の状況も推して知れるというものです。当時、宇宙は全くの未知の空間であり、何が起こるかさっぱり予測が出来ませんでした。そのような場所では一つの些細なミスが命取りになり、メンタルを鍛えて「いざ」というときに備えておかなければなりません。

また、当時は社会主義陣営と資本主義陣営が対立しており、両陣営の代表たるソ連とアメリカは、直接戦争をしない代わりに科学で目覚ましい成果を上げることでお互いの国力を誇示していました。俗にいう冷戦状態ですね。中でも宇宙開発は分かりやすく科学力の差を見せつけられる分野でしたので、お互い力が入ります。

そのような動機にも後押しされたという理由もあり、旧ソ連では、宇宙飛行士にかかるストレスを和らげるために、科学的なメンタルトレーニングが考案されることになりました。その内容に関しては伏されている部分も多く、全容をうかがい知ることはできません。しかし、現代のメンタルトレーニングに受け継がれた様々な方法論や、現代のロシアに伝わる格闘技「システマ」の呼吸法などからその一端が垣間見えてきます。

さて、ソ連は高度な科学技術やメンタルトレーニングの導入により、1961年に世界で初めての有人宇宙飛行を成功させることになるのですが、当時はまだメンタルトレーニングという言葉は全くというほど知られていませんでした。なにしろ宇宙開発で最も重視されるのは科学力であり、宇宙飛行士のためにメンタルトレーニングを行っているという情報があったにせよ、それは微々たるものだと思われていました。

状況が変わるのはもう少し後のことになります。宇宙開発のような特殊な分野ではなく、もっと多くの人の目に触れやすいスポーツの分野で、その大きな効果が明らかになってからでした。